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2026年5月4日、NPO法人bootopiaは、東日暮里の元映画館を会場にミートアップ「うごかせるもの/movable」を開催した。会場には、同日開催の「文学フリマ東京42」で手に入れたばかりのZINEや同人誌、手刷りの団扇や手拭いが並び、参加者がリラックスして過ごし、カジュアルに交流できるよう、ブリトーやドリンクなども用意した。
今回のイベントのテーマは、「うごいている日本語」だ。いま、日本語は母語話者だけのものではなくなってきている。私たちbootopiaがこのテーマに関心を持ったきっかけのひとつは、ゲーム実況やVTuberなどのネットカルチャーだった。そこでは、海外の配信者が日本語をミームとして使いこなし、コメント欄で複数の言語が入り混じる状況が日常的に生まれている。
しかし、そうした現象を入り口に日本語教育の現場を覗いてみると、「正しい日本語を教える」という制度的な枠組みと、現実で混ざり合いながら動いている日本語との間には、少なからぬズレがあることに気づく。本イベントは、そうした変化を単なる「誤用」や「課題」として処理するのではなく、新しい表現や関係性が立ち上がる現場として捉え直すために企画したものだ。
当日は、このテーマを深掘りする全4本のトークセッションを実施した。日本語教師の役割の変化、生活者の読み書きの実態、複数言語が混ざり合う場としての日本語、そしてAI翻訳とミームから生まれる新しい表現。日本語教育、社会言語学、批評、制作、ネット文化といった多様な視点から、いま日本語がどこで、誰によって、どのように動いているのかを語り合う時間となった。(執筆:松本友也/NPO法人bootopia理事)
### 1. 教室の外にある日本語──古屋憲章さん
最初のトークに登壇したのは、日本語教師であり、帝京大学日本語教育センター助教の古屋憲章さんだ。話の中心に据えられたのは、日本語教師の役割の変化についてである。
印象的だったのは、古屋さんの教え子がeスポーツ大会で活躍したエピソードだ。教室ではあまり目立たない学生が、ゲームの大会ではチームを勝利に導く存在であり、MVPを取るほどのプレイヤーだったという。日本語でのインタビューは必ずしも流暢ではなかったものの、その場で彼が尊敬を集めていたことは明らかだったと古屋さんは振り返る。
このエピソードは、教室で見える学習者の姿が、その人のすべてではないことを示している。日本語の授業では「できる/できない」という軸で見られがちな学生も、別の活動世界では、豊かな能力や関係性を持っていることがある。日本語教育が見るべきなのは、教室内の成績や発話能力だけではなく、その人がすでに持っている活動や関心、物語なのではないか、という問題提起だ。
古屋さんが紹介した「総合活動型日本語教育」(日本語教育研究者の細川英雄さんが90年代に提唱した教育法)の実践も、その問題意識とつながるものだ。そこでは、文法や語彙を直接教えるのではなく、「〇〇と私」というテーマで、自分と対象との関係を語っていくという。たとえば「ゲーム」について話すなら、ゲームそのものの説明ではなく、自分にとってゲームとは何か、なぜそれが大切なのかを言葉にしてもらう。「ふるさと」について書くなら、観光案内ではなく、祖母に手を引かれて海辺を歩いた記憶のような、自分に結びついた経験を語るのだそうだ。
ここでの日本語教師は、単に文法を教える人ではなくなる。その人の話を聞き、問いを返し、断片的な言葉を場の中で支えながら、その人が自分の経験を日本語で語れるようにしていく存在となる。古屋さんは、その根本にあるのは「その人に興味を持って聞くこと」だと語った。
これは簡単なようでいて、実は日本語教師の専門性を問い直す話でもある。かつての日本語教師が担ってきた「正しい日本語を教える」役割とは別に、いま求められているのは、人が自分のことを語り、他者と関係をつくる場を設計する力なのかもしれない。その専門性をどう言語化し、共有し、育てていくのか。このトークでは、そんな問いが浮かび上がった。
### 2. 「日本語ができる」とはどういうことか——福永由佳さん
続いて登壇したのは、総合研究大学院大学・国立国語研究所研究系教授の福永由佳さんだ。福永さんのトークでは、「日本語ができる」とはそもそもどういうことなのかが問われた。
福永さんが研究してきた在日パキスタン人コミュニティの事例では、日本語能力を「読む・書く・話す・聞く」が均等にできることとして測る発想では捉えきれない生活実践が紹介された。
日本国内の中古車ビジネスの現場では、パキスタン出身の人々が、日本で車を仕入れ、ロシア語でロシア人顧客とやり取りし、日本語の書類作成は日本人従業員に任せる、といった形で商売を成立させていたという。若い従業員がオークション画面に向かっていても、日本語を文章としてすべて読めるわけではないそうだ。しかし、画面のどこに何が出るか、この数字ならどう判断するか、この漢字があったら注意するか、といった実務上の見方は身につけている。事務所の壁には地名などを含む日本語のメモが貼られていて、「この文字があったら買ってよい/買ってはいけない」と判断するためのサインとして使われていたとのこと。つまり漢字は、意味を深く読解する対象というより、仕事を進めるための記号として機能しているのだ。
この話から見えてくるのは、「読める」とは何かという問いである。学校的には、文章を理解できることが「読める」とされる。しかし、生活や仕事の現場では、必要な情報を拾い、判断し、他者に頼み、ツールを使いながら行動できることもまた、実践的な読み書き能力だといえる。
福永さんは、教育の目的は本来、その人が生活できること、幸せに暮らせることにあるはずだと語った。ところが、教育の中では、漢字が書けること、文法が正しいこと、読む・書く・話す・聞くが揃っていること自体が目的化しやすい傾向があるという。手段であるはずの日本語能力が、いつのまにか目的になってしまうのだ。
さらに重要だったのは、能力を個人の中に閉じ込めない視点だ。役所の書類を友人に読んでもらう。学校のプリントをママ友に聞く。家の売買のような大きな手続きも、信頼できる人に任せる。これは単に「できないから頼っている」のではない。任せられる相手を選び、その関係性を維持していること自体が、高度な生活技術なのだという。
一方で、すべてを他者に頼ればよいわけでもない。医療の問診票のように、プライバシーに関わる場面では、自分で読み書きしたいという人もいる。つまり、日本語支援に必要なのは、本人の能力を一律に高めることだけではなく、その人が場面ごとにどのような選択肢を持てるかを考えることだと福永さんは指摘する。
トーク後半では、日本語母語話者側の変化も論点になった。学校のプリント、自治体のお知らせ、災害情報などは、日本語母語話者にとってもわかりにくいことが多い。「やさしい日本語」や「わかりやすさ」は、外国人のためだけのものではない。日本語母語話者自身もまた、多様な日本語、変化する日本語、わかりにくい日本語に向き合う必要があるという。
ただし、わかりやすくすればすべて解決するわけでもない。言語には、丁寧さ、婉曲さ、余白、遊び、気取りといった性質もある。わかりやすさと豊かさは、ときに相反することもある。特に日本語母語話者は、自分たちの日本語が揺さぶられることに慣れていないという側面もある。福永さんのトークは、「日本語ができる」という言葉の意味を、生活、関係性、母語話者側の変化まで含めて再定義する必要を示していた。
### 3. 日本語の汽水域を探す——松田真希子さん
3人目の登壇者は、東京都立大学人文科学研究科教授の松田真希子さんだ。松田さんのトークは、イベントタイトルである「movable」に最も直接的に接続するものだったといえる。
松田さんは、言葉が本来持つ流動性を「汽水域」に喩えた。汽水域とは、川の淡水と海の海水が混ざり合う水域のことだ。言葉も本来、ひとつの純粋な状態として存在するのではなく、複数の言語や経験、規範、ズレが常に混ざり合う曖昧な場にあるという。しかし、学校教育や社会制度はそうした混ざりを見えなくし、「正しい/間違い」「母語/外国語」のように言葉を固定化してしまいがちだ。松田さんはそれを「言語学習の呪い」と呼んだ。
そうした汽水域のような環境で新しい言葉が生まれる過程を、松田さんは「ブリコラージュ」「モンタージュ」「コラージュ」という3つの段階で整理した。まずは手元にある言葉を間に合わせでつないで試してみる「ブリコラージュ」。それが通じたら、今度は組み合わせを変えてもう一度やってみる「モンタージュ」。さらに、異なる要素をくっつけるだけでなく、互いに変質させながら新しい形に再構成する「コラージュ」へと進むのだという。
学習者の言葉のズレや誤用も、この過程を経て新しい表現になっていく。たとえば、女性の学習者が「自分は家の奥にいないから、奥さんではなく『ソトさん』ではないか」と反応したエピソードが紹介された。標準的な日本語としては誤用でも、それは「奥さん」という語に潜む社会的前提を揺さぶる提案になり得る。こうしたズレを周囲が面白がって繰り返し、少しずつ形を変えながら共有していくと、言葉はミームのように定着していくかもしれない。もちろん、外国人の片言を面白がることは差別や冷やかしと隣り合わせでもあるが、ズレをすべて修正対象にしてしまえば、日本語が動く可能性も閉じてしまうことにもなる。
トークの後半では、海外で暮らす日本につながりのある子どもたちが通う「日本語補習校」での実践が紹介された。たとえばシドニーの補習校で俳句をつくる授業では、日本の季語をそのまま教えるのではなく、その土地に暮らす子どもたちにとっての「春」を探すという。すると、春になると攻撃的になる鳥のマグパイや、ゴキブリ、シドニーの青い空など、日本の伝統とは異なる季節感が出てくるそうだ。これは、俳句という形式は借りながらも、その中身を自分たちの実際の経験に合わせて「動かして」いる例だといえる。
しかし一方で、松田さんは「ただ動かせばいいわけではない」とも語った。言葉の変化や混ざり合いを「何でもあり」だと無批判に肯定するだけでは、いずれ英語化や標準化といった大きな波に飲み込まれ、ローカルな言葉やマイノリティの記憶はかえって失われてしまうという。だからこそ、意図的に言葉を使い続け、「守る」ことも必要になるのだ。シドニーの俳句の実践も、中身を動かすことで、結果的に海外という環境で日本語の実践を「守る」ことにつながっていた。松田さんのトークは、言葉を動かすことと守ることが対立するのではなく、両輪として機能していることを示していた。
### 4. AI翻訳時代のブロークン・ジャパニーズ──黒嵜想さん、山本浩貴さん
最後のセッションは、批評家の黒嵜想さんと、いぬのせなか座主宰の山本浩貴さんによる座談会形式で行われた。前半3本が、日本語教育や生活者の言語使用を中心にした話だったとすれば、このセッションでは、AI翻訳、ネットミーム、ファンカルチャー、文学、ゲームといった現在進行形の日本語表現が扱われた。
黒嵜さんの中心的な問題意識は、「ブロークン・ジャパニーズを聞き取る耳」にあるという。
トークの出発点として黒嵜さんが挙げたのは、SF小説『プロジェクト・ヘイル・メアリー』と、コロナ禍以降に流行した国際ロマンス詐欺だった。『プロジェクト・ヘイル・メアリー』では、人間とはまったく異なる音韻体系を持つ宇宙人ロッキーが、翻訳機を介して話し始めた瞬間に、読者にとって一気に愛おしい存在になるという。見た目や身体が人間的だからではなく、翻訳機がつくるぎこちなさや癖を通じて、その向こうにいる存在を感じてしまうのだ。
国際ロマンス詐欺も、まったく別の意味で同じ問題を示している。明らかに機械翻訳を通した不自然な文章であっても、繰り返しメッセージが届き、こちらの反応に応じて言葉が返ってくると、人はその文字の向こうに人格や感情を見出してしまうのだそうだ。黒嵜さんは、この二つの事例を、言語が機械や翻訳を介して間接化され、文字の上でだけ出会う時代に、人がどのように相手の存在を感じるのかという問題として捉えていた。
そこから、「やさしい日本語」への違和感につながっていく。やさしい日本語は、母語話者が非母語話者に向けて、言葉をわかりやすく整える実践だ。しかし、必要なのは話す側の調整だけなのか。むしろ、非母語話者が持っている発音や文法の崩れ、持っている語彙でなんとか伝えようとする試みを、母語話者の側がどう聞き取るのかが問われているのではないか、と黒嵜さんは指摘する。
黒嵜さんは、言葉の崩れの中にこそ個人が現れると語った。流暢で透明な言葉が、そのまま内面を伝えるわけではない。むしろ、言葉がうまく出てこない、持っている言葉をなんとか組み合わせている、その不透明さの中に、身体や個性が見えてくる。崩れは、単なる欠損ではなく、その人の声のきめを立ち上げるものでもあるそうだ。
この議論は、外国人の「カタコト」をどう表象するかという問題にもつながっていく。ブロークン・ジャパニーズは、しばしばカタカナで表記される。しかし、カタカナは単なる音写の道具ではない。ひらがなや漢字で書けるはずの言葉も、カタカナにした瞬間に「外から来たもの」「外国人らしいカタコト」として見えてしまう側面がある。黒嵜さんは、そこに、固有の崩れ方を一括りの「カタコト」にしてしまう危うさを見ていた。崩れの中に個人の感情や身体が現れるのだとすれば、それをカタカナで平板化してしまうことは、その人の声を聞き分ける機会を失うことにもなりかねない。
続いて山本さんが、AI翻訳やSNSミームによって、日本語の変化が日本語圏だけで完結しなくなっている状況を紹介した。中でも重要な事例として挙がったのが、韓国語の自動翻訳から生まれた「イェケ・ラーメン」のミームである。日本においてポピュラーな「家系ラーメン」が、X上の自動翻訳で「イェケ・ラーメン」として現れ、それを日本語話者が面白がってミームとして使う。ここでは、日本語が海外で受け取られ、変換され、再び日本語圏に戻ってきているのだという。
ほかにも、中国語から英語、日本語へと翻訳される過程のズレから生まれた「サメミーム」や、韓国語ボイスや空耳が日本語圏で流通する「スピキ」、イタリア語やインドネシア語の音が意味不明なまま子どもたちに覚えられていく「イタリアンブレインロット」など、さまざまな事例が挙げられた。ここでは、意味を翻訳し、理解してから受け取るという態度だけではなく、理解不能なまま音やノリを流通させる態度が一般化しつつあるそうだ。
こうした事例から見えてくるのは、AI翻訳が言葉を滑らかにする一方で、新しい摩擦を生み出しているという逆説だ。自動翻訳によって海外の投稿やミームが次々と日本語化されるなかで、真逆の意味になったり、人名が変わったりするような誤訳もそのまま流通していく。そこで生まれる奇妙な言葉は、ただのエラーではなく、ミームの素材にもなる。AI翻訳は言葉の壁をなくしていくと思われがちだが、実際には誤訳やバグを通じて、新しいノイズを大量に生み出している。
### 5. おわりに
4つのトークを通じて見えてきたのは、日本語を「正しく教える/正しく学ぶ」だけでは捉えきれない現場の広がりだ。
教室の外にある学習者の活動世界。個人の能力だけでは測れない、生活の中の読み書き。学習者のズレや複数言語の混ざりが持つ、日本語を更新する力。AI翻訳やミームの中で生まれる崩れやノイズ。それらはそれぞれ別の話題でありながら、「日本語をどう動いているものとして見るか」という問いでつながっているように思える。その動きを観察し、言葉にし、次の実践につなげること。今回のミートアップは、そのための最初の場となった。